流れよ我が涙、と警官に言った①

2023/3/27

あなたはカツアゲに遭ったことがあるだろうか。
私は、ある。
時は90年代半ば、場所は原宿・竹下通りだ。

当時、私は勤め人であった。JR原宿駅で降り、竹下通りを抜けて神宮前の会社まで歩く毎日を送っていた。色とりどりのパステルの粉をぶちまけたようなあの通りが、通勤路だったのだ。
ある日の夜、仕事を終えていつものように竹下通りを歩いていると、声をかけられた。

「ねーねー、お金貸してくんない」

ふり返ると、見知らぬ若者が笑いかけてくる。

「お金お金、持ってるだけでいーから。千円でいーから」

相手は、へらへらと笑いながら、手のひらをつきだしてくる。
人ちがいか、そう思った時であった。

「ぶっ殺すぞ、この野郎」

後ろから声がした。
斜め後方に、歩きながらこちらを睨んでいる男がいた。

そこではじめてわかった。
これは恐喝だ。
「お金貸して」と言いながら近づいて、死角から別の男が突然脅しにかかる。これが二人組の手口らしかった。
その男が、強面の大男だったら、私はそそくさと財布を取り出してしまったかもしれない。
だがそこにいたのは、色白の童顔といってもいいような顔だちの若者であった。

「逆さに振ったって、金なぞないね」

そんな言葉がつるりと口を滑って出た。

「しまった!」

つい虚勢を張ってしまった。
こいつらはナイフを持っているかもしれないというのに!

言い放ったあとの言葉が続かない。
二人組は、目を見交わし、「何だこいつ‥‥?」という風に首を傾げている。
歩き出すと、無言でついてきた。
雑踏の中、我々は竹下通りをかたまって歩いた。

「‥‥‥‥」

「‥‥‥‥」

端から見たら、それは単に、三人の男が並んで歩いているだけの光景であったろう。
しかし実際には、恐喝犯と被害者がお互いに次の一手をどう出したものかわからず、無言で行進している図なのであった。
気まずさを打ち払うように、若者の一人が言った。

「あのさー、お金‥‥」
「金なんてないって。たかるやつ間違えてんだろ」

またしても口がすべる。しかも相手を見下した口調だ。
危ない! 何を言ってるんだ、俺は。

竹下通りと、原宿駅の改札は一直線上にある。そのまま行けば、まっすぐ竹下口改札に飛びこめる。
問題は、駅前の横断歩道だ。信号が赤だったら、二人組と一緒に歩道で立ちつくすことになる。何としてもそれは避けたい。

信号よ! たのむ青で! 何とぞ青で! 青でお願いします!
祈るような気持ちで見上げると、赤。
人生はままならない。

三人で横断歩道に立ち尽くす。
信号は一向に変わらない。脇腹が冷たい。
長い長い、悠久の時を経て、ようやく信号が青に変わる。即座に歩き出すと、相手が上着をつかんできた。

「おいちょっと来いよ‥‥‥‥」
「はなせよ!」

精一杯声を荒げて引き剥がす。背中が恐怖に粟立った。

刺される‥‥!

近づく改札口。
もうすぐだ。定期券をかざし、改札口さえくぐれば、敵は足止めだ。
当時は自動改札などというものはなかった。乗客は改札で定期券を駅員に見せて、改札を通っていたのだ。

信じられますか。

あたふたと改札をすり抜け、ホームに駆け上がり、新宿・池袋方面行きに飛びこむ。

「ぷしゅう‥‥!」

閉まる電車のドアが装甲板に思える。素早く前後左右に目を走らせるが、あの二人はいない。
今頃になって心臓が早鐘のように鳴り出す。
さてどうすればいいのか?
無論、警察だ。警察に届けるのだ。
新宿の東口駅前にたしか交番があったはずだ。あそこで話をすれば、すぐに警官が現場に急行、あっという間に二人組はふんづかまるにちがいない。

「あのう‥‥!」

新宿東口の交番に駆け込み、警官に声をかけた。
一人の警官が物憂げにこちらを見た。

「あのう、カツアゲにあったんですけど‥‥‥‥」
「カツアゲ‥‥‥‥?」

警官は眉をひそめ、こちらを睨めつけた。無言である。舘ひろしを大味にしたような顔つきの若い男だ。

「あの、えと、つまりカツアゲというか、あの、キョーカツ! 恐喝です! 脅されて金を取られそうになって」

「どこで」

警官は無造作に言った。

「あの、原宿の竹下通りで‥‥‥‥」

「原宿の事件なら、原宿の署に行かなきゃだめだろうがァ」

このバカが、という風情で警官は言った。

「ここ、新宿だろ」

呟くように言うと警官は押し黙った。もはやこちらのことは見ていない。

思いもかけない対応に、とっさの言葉が出ない。
金魚のように口をぱくぱくさせて私は言った。

「‥‥あの、えと、どもすいません」

帰りの電車で頭がぐるぐると回る。
一般市民が恐喝にあったというのに、何なのだあの対応は。

いや、あそこは新宿東口、歌舞伎町のすぐそばだ。
きっとあの警官らの日々の業務は、暴力団組員を取り押さえたり、ヤクの売人を見張ったり、強盗を追いかけたりというようなハードなものなのだろう。
そこへ「カツアゲが」などと言っても話にならないのかもしれない。きっとそうだ。

つり革につかまりながら、私はこの出来事を「こちらは悪くない、でも警官も悪くない」という風に小市民的にまとめあげた。

 

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【緊急通達】

社員の皆様方へ

お疲れさまです。デザイン部の早川です。

昨夜、私は竹下通りにて二人組の恐喝に出会いました。
一人が金を貸して欲しい、などと言いつつ近寄ってきて、もう一人が「殺すぞ」などと言って脅してくるという手口です。
社員の皆様の中には、竹下通りを通る方も多いと思います。特に女性の方はくれぐれもお気をつけください。

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翌朝、出社した私は、以下のようなメールを送信した。
【全社員に送信】である。
ひと晩考えて、このメールを送ることにしたのだ。
交番に取り合ってもらえない、などという一身上のことより、職場の同僚を案じることの方が大切であることに気づいたのだ。
何と私は大人なのであろう。

メールを送ってしばらくすると、背後からペタシペタシというせわしないスリッパの音が近づいてきた。見ると社長である。

「早川くん、早川くん!」

社長は、スリッパをぱたつかせながら、足早に近づいてきた。

「早川くん、カツアゲに遭ったってホント!?」

息せき切って尋ねてきた。瞳が少年のように輝いている。

「ええ、メールに書いた通りですよ、相手は二人組の若者で、最初は金を貸せと」

「金取られた!?」

社長は私の言葉を遮って言った。

「‥‥‥‥取られてませんよ、最後まで拒否したんですから」

社長の瞳に、落胆の色が浮かんだ。

「ええッ、取られてないの?」
「取られてないです」
「全然?」
「はい、取られてません」
「そんなこと言って千円ぐらいは取られたんだろ?」
「取られてないですって!」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」

「なァーんだ‥‥‥‥」

社長は露骨につまらなそうな顔をして、ペタシペタシと去っていってしまった。

しばらくすると、今度はパタパタパタと軽い靴音が近づいてきた。
見ると制作部の藤山さんであった。有能である上に、たいそうな美人である。

「早川さん、早川さん!」

藤山さんは、スカートをひらひらさせながら、足早に近づいてきた。

「早川さん、カツアゲに遭ったってホント!?」

息せき切って尋ねた。瞳が少女のように輝いている。

「ええ、メールに書いた通り二人組の」

「お金取られた!?」

藤山さんは素早く私の言葉を遮って、言った。

「取られてませんって、拒否したんだから」

彼女の瞳に、落胆の色が浮かんだ。

「えー、取られてないの‥‥‥‥」
「取られてませんったら」
「全然?」
「全然」
「でも少しぐらいは取られたんじゃなあい?」
「取られてないですって!」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」

「そう‥‥‥‥」

藤山さんは、スカートをひらひらさせながら行ってしまった。

気がつくと、まわりの社員が顔を伏せている。
笑いを噛み殺しているのだ。
理不尽と困難の海をひとり泳ぎきり、ようやくたどり着いたそこは滑稽という離れ小島であったのだ。

同僚が耳元で言った。

「あのさー、メール見たけどさー、カツ‥‥」
「取られてない!」
私は憤然と立ち上がった。
「金は取られてないぞ!」

叫んで立ち上がったはいいが、その後が続かない。思わず外に飛び出る。出てはみたものの、どこにも身の持って行き場がない。
そこでふと思い立った。
おおそうだ。新宿の警官が言ったように、原宿の警察に届ければいいではないか。

 

表参道沿いの交番におもむくと、そこにいたのは眼鏡をかけた実直そうな警官だった。

「あのう‥‥‥‥」

「はいッ、何でしょう」

きびきびした応対。爽やかな笑顔。胸のつかえがおりる思いだ。

「実は昨日、竹下通りでカツ‥‥‥‥恐喝にあったんです」
「ええッ、恐喝!?」

警官は驚愕の眼差しでこちらを見つめた。重々しく頷く。

「とにかく、まあとにかく、こちらへ、どうぞ」

パイプ椅子に腰かけると、警官が身を乗り出してくる。

「その時の状況を詳しく話してくれますか」

このひと言を待っていたのだ。

ことの顛末を語る。話を聞いてくれる相手がいるということは、何と安心感をもたらすのだろう。
しかしふと気がつくと、警官は少し退屈そうな表情でこちらを見ている。
メモの手も止まってしまっていた。
話し終えると、少しの間沈黙がおりた。通りを過ぎゆく人が、ちらりと交番の中をのぞく。

「で‥‥‥‥」

当惑したような面もちで、警官が口を開いた。

「結局、被害は、あったんですか?」
「いえ、ですからお金は取られてないんです、何とか振り切りましたから!」私は言った。
「じゃあ、被害はなかったわけですね?」
「ええと、お金は取られてません」
「つまり、被害は、ないと」
「ええ、まあ被害という被害は、ないといえばないですが‥‥‥」
「ないんですね?」
「ええ、はあ、ないです‥‥‥」

「‥‥‥‥まあ、実際に被害があった、ということであれば、これはもう我々としても対処するんですが、実質的な被害がない、ということであれば、なかなか、そうですね、被害がないということなら‥‥‥」

警官はボールペンをいじりながら、何だか曖昧なことを言った。

「‥‥‥‥それにですね、まあ、竹下通りの恐喝とかで被害に遭うのは、だいたいが若い人なんですよね、高校生とか中学生とか。あなたみたいな人がそういう恐喝に遭うというのは、ちょっと、ねえ‥‥‥‥今までにそういうのは、聞いた事がないんで‥‥‥‥」

パイプ椅子に冷たい汗がにじむ。私は被害者のはずなのに、遠回しに状況証拠を突きつけられている犯人のような心持ちになっているのはどういうことか。
警官はボールペンをいじりながら、私の顔を見て尋ねた。

「まあ、つまりそういう被害者は総じて若い人なんで‥‥‥‥ところであなたは、おいくつなんですか?」
「三十です」 私は答えた。
「えッ、三十! あなた三十歳なんですか!」

警官はなぜか非常に驚いた。

「サイトーくんサイトーくん! この人三十なんだって!」

警官は側にいた若い警官に、何だか嬉しそうな声で言った。
サイトーくんと呼ばれた若い警官は、「へーえ、三十!」といって「はっはっは」と快活に笑った。しょうがないので私も笑った。

「いやー、あなた三十には見えませんよ、若く見られるでしょう、若く!」

警官はニコニコして言った。

「しかもそんなの着てるから余計そう見えるんですよ。そういう上着、なんていうのそれ」
「ジージャンですが‥‥‥」
「昨日もそれ、着てました?」
「着てました」
「あーッ。だからですよう。そんなの着てたから、余計に若く見られちゃったんだなあ! あなたみたいなねえ、大人が竹下通りで声かけられることって普通ないですから! ねえ、サイトーくん!」

警官は晴れ晴れとした顔で言った。サイトー巡査はまた「はっはっは!」と快活に笑った。私も笑った。

「そうかそうかあ、間違えちゃったんだなあ、相手は」

警官はノートをぱたん、と閉じた。

「いやーほんとにね、じゃあ、これからは気をつけてくださいね。服も、そういうんじゃなくて、背広とか着てたらいいんじゃないですか、はっはっは!」
「そうですねはは」
「ではどうもわざわざありがとうございました」

押し出されるような格好で、交番を出た。

表参道の歩道に立つと、ただ何となく歩き出し、たまたま見かけた回転寿司の店に吸い込まれるように入った。

紙のおしぼりで手を拭き、粉の茶を飲む。
皿を取ってほおばると、うっすらと涙がにじんだ。

「わさびのききすぎだよこりゃ」

そう私はひとりごち、魚片の乗った酢飯を、ひとり咀嚼し続けた。