2022/10/15
高校時代の友人で、航空自衛隊に入った男がいる。
彼はある時、飛行訓練で練習機を飛ばしていた。操縦席の後ろには教官が座っている。
と、いきなり教官に頭をゴン、と叩かれた。
「何ですか!?」
そう聞くと、教官は答えた。
「逆さだよ」
彼はいつのまにか、飛行機を天地逆さまに飛ばしていたのだ。
航空機のパイロットが、濃霧の中などで平衡感覚を失い、機体の姿勢や方向を一時的に見失うことを「空間識失調」という。
これに陥ると、地面が下なのか上なのか、機体が上昇しているのか下降しているのかもわからなくなる。
地平線が見えない状況下では、ベテランのパイロットでも陥ることがあるらしい。
ミツバチも、この空間識失調のような状態に陥ることがあるそうだ。
さざ波ひとつない湖の上など、視覚的な手がかりが一切ない場所を飛ぶと、自分の位置や姿勢を見失い、湖面に落ちてしまうのだという。
空や湖面だけではない。人生においても、空間識失調は存在する。
それは、仕事で成功した時などに起きやすい。
上昇気流に乗って一気に高みへと昇りつめる。
拍手と賞賛の雲に包まれ、鼻高々になっていると、いつしか自分の位置がわからなくなっている。
知らず知らず、上から物を言っている。態度が大きくなっている。
文字通り舞い上がってしまい、にわかにひとかどの者になった気がしてしまう。いきなり世に出た有名人などによく見られる現象だ。
本人は上昇しているつもりでも、実は下降していたりする。端から見ると一目瞭然なのだが、自分だけがわかっていない。墜落してはじめて気がつく。
しかし、それは誰にも責められない。
ミツバチのように一心に働いてきた者が、いきなり成功をつかめばそうなってしまうのだ。
急に高みに達すると、気がつかぬうちに心の水平線は失われてしまう。
それは誰にも起こりうることなのだ。
あなたにも。
そして私にも。
匂いたつエゴ
「実るほど こうべを垂れる 稲穂かな」
著作がベストセラーになったと知った時、私の頭にはこの言葉が浮かんだ。
我ながらなんと慎み深い男かと思う。
売れたり、勝ったり、出世したとたん、にわかに態度をでかくして、肩で風切って歩くような手合いは、もっとも野暮である。
ああいうのは、いわば心の成金だ。昨日まで歩だったくせに、右に左にこざかしく動く。あろうことか斜めにまで動いてしまう。そして分もわきまえず王将に詰め寄る。「と」とか書いてあるくせに何だ。
見ているだけで恥ずかしい。あんな心の成金みたいな者には決してなるまい。私はそう思っていた。
だがしかし!
「ベストセラー作家さん!」
「先生、サインしてください!」
毎日こんな風に言われると、本人も知らぬ心の底で、何かが発酵しはじめる。
意識の底の土壌から、植物の発芽の微速度映像のように、生温かいエゴがむくむくと頭をもたげてくる。
ある時、講演を頼まれた。
会場に着くと、椅子ひとつテーブルひとつの、小さな物置部屋のような控室に通され、一人取り残された。茶も出ない。私は思った。
「ふうん、ボクをこういうとこで待たせるわけね。あーはん?」
普段なら、そんなことは思いもしない。いい年して小僧扱いされても平気なものだ。
それが「あーはん?」である。
表立っては現れない。だが、理性の蓋のすき間から、己のエゴは気になるニオイのように立ち昇ってくる。
この時、すでに水平線は失われていたのだと、今は思う。
アメフラシの連鎖交尾
あるテレビ局から連絡がきた。「へんな生き物」のスペシャル番組を作りたいので、協力してほしいという。
企画書を読むと、変わった生き物をネタに、タレントにトークさせて笑いを取るといった内容。よくあるバラエティだ。私はプロデューサーに直言した。
「ありがちに思えますねえ。生き物というテーマ自体に何かもっとアイデアがないと、つまらないんじゃないでしょうか」
筋は通っている。無理なことも言っていない。
だが、その言いぐさに、何とはなしに不遜の匂いがする。
しばらくして、練り直したという企画書が送られてきた。しかし前と何がちがうのかわからない。聞くとこういう答えだった。
「出演者のお笑いタレントが○○から△△に変わりました」
電話を切って、私はひとりごちた。
「結局、生き物情報をくれってだけの話だったか。まったく」
この「まったく」のあとに補助線をひっぱってみると、「オレを誰だと思ってるんだ」という決まり文句がきっと続いていたのだと、今は思う。
別のテレビ局から連絡があった。やはり生き物スペシャル番組をやりたいのだという。
出演者はお笑いタレントの人たちにくわえ、ドラマに映画に大活躍の人気女優A子さんである。
「A子もおさえて出演者はばっちりなんですけど、生き物とどうからませたらいいでしょうねえ、先生」
番組ディレクターは、腕組みをして首をひねった。
そうねえ。テレビの人じゃ何も考えつかんのだろうなあ。じゃあオレがひとつ考えてやるか。
私はこう提案した。
「出演者の皆さんにアメフラシの交尾をやってもらうのはどうでしょう」
アメフラシは海に住む軟体動物の一種で、姿形は地味なウミウシといったところだ。
大きなもので体長30センチを超える。海へ行くと、岩場でのたくっているのを見ることもある。
アメフラシは雌雄同体の生物だ。頭にオスの生殖器が、背中の後ろにメスの生殖器がある。一匹でオスでもあり、メスでもあるのだ。

アメフラシは、別のアメフラシの後ろにくっついて交尾をする。頭と背中で交わるような格好だ。
すると、そのアメフラシの後ろに、さらに別の一匹がくっついて交尾をする。
その後ろにまた別の一匹が、そのまたさらに後ろに一匹が‥‥といった具合に「電車ごっこ」のようにアメフラシがつながって交尾をする。これを「連鎖交尾」という。

さらに、先頭の一匹が最後尾の一匹にくっついて、輪っかのように交わることもあるという。交尾の輪廻だ。

このアメフラシの連鎖交尾を、人間で再現しようというアイデアである。

「皆さんにこういう状態になってもらって、アメフラシの交尾について説明したいと思います」
「先生! それは面白いですね! ぜひやりましょう!」
ディレクター氏は大喜びであった。
人気女優を床に這わせる
「ええ〜!? 頭がオスで背中がメスってどういうことですかァ〜!?」
「マジマジ〜!? うそでしょーッ!!」
収録当日。スタジオでアメフラシの説明を始めると、出演者の皆さんたちは大げさに驚いてくれる。
沸く観客席。司会者が満面の笑みでカメラに向かう。
「はいッ、ただいま早川先生のご説明にあったアメフラシの交尾ですけれども! 話だけだとちょっとわかりにくいんで、実際にやっていただきたいと思います!」
拍手と共に、A子さんとタレントたちが前に出てくる。
「ではこうして床に這っていただいて‥‥頭をお尻にくっつけて‥‥」
姿勢を説明すると、出演者の皆さんがそれぞれポーズをとりはじめる。
A子さんが床に手をつく。グラビア出身の見事な肢体が、四つん這いだ。
そしてついに、ほかでは絶対に見られないであろう、人気女優A子さんによるアメフラシ交尾再現がここに実現した。
「や〜だ〜!」
A子さんの嬌声がスタジオに響く。爆笑する観客。
「はい、こうしてお互いに交わり、卵子を受精させる独特の交尾を、『連鎖交尾』と申します」
指示棒で指し示しながら、私は淡々と説明をする。
「おいおい! ゴールデンでこれはないやろ!!」
「ちょっと、ぼくも混じっていいですかあ!?」
スタジオ内は大騒ぎとなる。きっとここで「スタジオ大激震!!」とかいった、どでかいテロップが入るのだろう。
観客席は沸きに沸き、「アメフラシ交尾再現」のコーナーは爆笑のうちに終わった。
「いやあ先生、ありがとうございました!! おかげで大ウケでしたよ!!」
収録が終わると、ディレクターが満面の笑みで近寄ってきた。
「いやいや、喜んでいただけたようでよかったデス」
私は殊勝に頭を下げた。
だがその顔にはきっと「まあオレが考えたんだから当然じゃない」というような表情が浮かんでいたのではないかと、今は思う。
困惑の放映日
「はあ? 何これ? どおゆうこと?」
放映当日の夜。私は口をとがらせてテレビを睨んでいた。
「アメフラシの交尾再現」のコーナーは、すべてカットされていた。
はなからそんなものは存在しておりませんでした、というような、みごとな削除ぶりだ。
「何よこれ。A子の事務所のクレーム? お茶の間に交尾はNG? だったらなぜ俺にひとこと連絡を‥‥」
そこまで口にして、はっと気がついた。
いつしか、己の仕切りですべてが動いているような気になっていた。
自分の位置を見失ったまま飛んでいたのだ。とんだイカロス、中年のイカロスだ。
テレビの企画がなくなったぐらい、何だ。もともと自分はただの歩だったではないか。
心の成金となり、野暮をさらす有名人に鼻白んでいたが、何のことはない、自分もそうであった。
「こうべを垂れる稲穂」などと言っていたのが、この体たらくだ。こうべを垂れるどころか、天に向かってしゃちほこばる、青臭い稲穂である。
もしこのアメフラシの一件がなかったら、「あれもできる、これもやれる」と調子に乗って飛び続けていたことと思う。
そして上も下もわからなくなり、やがてミツバチのように墜落していたにちがいない。
私の頭をゴン! と叩き、空間識失調から抜け出させてくれた教官は、きっとA子さんであったのだろう。
私は空を仰いで言った。おかげで水平線を取り戻すことができました。
ありがとう。A子さん、ありがとう。
しかし、ソレはソレとして、A子さんのアメフラシ交尾映像、どうにか見られないもんですかね。
ほら、一応わたくし、当事者なわけですし。
テレビ局のどこかにお蔵になっているビデオを、ちょっと渡してくれるだけでいいんです。
Youtubeにアップしたり、裏サイトで売ったりも決していたしませんので、関係者の皆さま、どうぞひとつよろしくお願いいたします。